兵庫県佐用町はひまわりの畑も有名ですが、観光・写真撮影には平福川端風景と街並みもお勧め。水運で栄えた川沿いの宿場町。川沿いの土蔵群。一両で走る電車。写真愛好家にはたまらない風景。その中の古民家が「お休み処瓜生原」として営業されていて、手打ちそばやお茶を提供し、川を見ながらお食事やお茶を楽しめ、土間から石段を下りると川面に出られるようになっています。今回は、「ひまわり畑」を楽しみ、「南光ひまわり館」「お休み処瓜生原」へと足を運んできました。
contents
- 佐用町ひまわり畑7月中旬から8月上旬が見頃
- 南光ひまわり館
- お休み処瓜生原
- 宿場町平福(商工観光課制作地図)
- まとめ
佐用町ひまわり畑
兵庫県佐用町は7月末から8月上旬にかけて、ひまわりを農家の方が丹精込めて育て60日間で向日葵の見頃を迎えます。時期や地区をずらして町内のどこかでヒマワリ畑が見られるように栽培。
南光ひまわり館
農薬を使用せずにひまわりを栽培して、見頃が終わった1か月後種を収穫し「南光ひまわり館」で、その種から「ひまわり油」を作っています。厳選された種を全国に数台しかない圧搾機で絞った一番搾りの油は一切添加物なしの自然食品で、常に新鮮な製品をお届けするために、必要量に合わせて製造されています。体に嬉しいひまわり油の優れた3つの特徴。コレステロールゼロ・ビタミンE(老化防止の効果があるとされる栄養素が一般オリーブオイルの約10倍)・オレイン酸(オレイン酸が主成分100g中約70gと豊富に含んでいます)が豊富。
お休み処瓜生原
因幡街道の宿場町の風情を残す平福
「お休み処瓜生原」は江戸時代から昭和初期まで鋳物業を営んでいた瓜生原家の邸宅で、江戸後期の建築といわれているそうです。落ち着いた雰囲気の中でゆったりとお食事を楽しめます。
昔ながらの道具が並べ展示されていて、見学させていただくことが出来る貴重な体験です。
川座敷
川が見えるお部屋でお蕎麦屋やお茶をいただくことが出来ます。
お休み処瓜生原メニュー
土間から石段を下りて
土間から石段をおり川面へと出ることが出来ます。
ギャラリー
ギャラリーも設けられており、自由に見学させてもらうことが出来ます。邸宅なので、昔ながらのお手洗いの雰囲気も眺めることができたり、現代ではなかなか味わうことのできない歴史を肌で感じてみてください
宿場町平福(商工観光課制作地図解説より)
沿革
今に残る町並みは、江戸時代初期池田氏により城下町として整備されました。一国一城令により城下町として整備されました。一国一城令により利神城が廃城となったため城下町としての歴史は短かったが、その後陣屋や鳥取藩本陣が置かれ因幡街道有数の宿場町として発展しました。南北1.2kmの区域300戸余りの家の約8割に屋号がつく商人の町となり、昭和初期まで因幡街道及び佐用の中心として繁栄しました。旧街道沿いにある連子窓と千本格子をを持つ古い家並みや佐用川沿いの石垣上の土蔵群が、往時の面影を今に伝えています。
歴史
- 元弘年間(14世紀前半)
内海修理亮が利神城に居城すると伝えられる。 - 貞和五(1349)年
別所敦範が豊福荘から田住荘へ移り、利神城に拠ると伝えられる。 - 天正六(1578)年
秀吉の命をうけ、山中鹿助幸盛が利神城に侵攻、別所氏と戦ったと言われている。 - 慶長五(1600)年
池田出羽守由之が佐用郡二万二千石を領し、入城する。城の大改修に取り掛かる。 - 慶長十(1605)年
池田輝政、利神城天守の破壊を命ずるという。 - 元和元(1615)年
池田輝興、佐用郡二万二千石を領する。(平福藩)
このころ街道筋の町屋がほぼ完成したとされる。 - 寛永八(1631)年
輝興、赤穂に移る。利神城廃城。その領地は山崎藩・池田輝澄の所領となる。これより宿場町としての道をあゆむ。
解説
- 宮本武蔵初決闘の場
慶長元(1596)年、武蔵13歳のとき、新当流有馬喜兵衛の「何人なりとも望みしだい手合わせいたすべし、われこそ日下無双兵法者なり」という高札を見て初めての決闘をいどみ、一刀のもと倒したといわれています。五輪書序文の一節の碑があります。 - 六地蔵・刑場跡
金倉橋の西側は、江戸時代の平福藩刑場と伝えられます。元ロク(1696)年に供養の建てられた言う六地蔵と「南無阿弥陀仏」と念仏碑があります。 - 川端風景
平福は慶長・元和年間(1596-1623)に城下町として現在の街なみが形成されましたが、わずか30年でその用を終えました。その後、経済的・文化的な繁栄に伴い、因幡街道有数の宿場町として生まれ変わりました。歴史の流れに従いその役割も終え、今は清閑なたたずまいのなかにその面影を残しています。連子窓や格子戸の家並みはもちろん、佐用川沿いの石垣に並ぶ川座敷、土蔵群は平福ならではの景観として特に有名です。 - 瓜生原家【お休み処 瓜生原】
享保年間に津山から移り住み、代々「吹屋」という屋号で昭和のはじめ、頃まで鋳物業を営んでいました。家屋は切妻越しの屋根をはじめ、大屋根の煙り出し、軒下の日除け目隠し、潜り戸(くぐり戸付き上げ大戸)ブッチョウづくり、出棺口、格子など町屋の特色をそなえています。 - 天満神社
平安前期に学者・政治家として活躍し、今は学問の神として有名な菅原道真が祀られています。毎年6月中旬に秋祭りが行われます。 - 陣屋門・代官所跡
江戸時代・小藩の城や代官所を陣屋と呼びました。平福は利神城跡、松平氏5千石の旗本領で代官支配となりました。今の陣屋門は、元治元(1864 ) 年に代官・佐々木平八郎が建築しました。 - 本陣跡
鳥取池田藩の本陣跡、加古郡神吉城の落城により神吉頼定の子、宗臣(当時8歳)が再興を願って平福にきました。関ヶ原の戦いに酸化しての帰国後、ここを本陣として大年寄りになりました。現在はすさのお神社の”お旅所”になっています。中溝を隔てて700坪余りの広大なものであったといわれていますが、一角に残る老松がその広さを物語っています。 - 金毘羅神社
祭神はすさのおのみこと、祟徳天皇。”金刀比羅”は、ガンジス河のワニが神格化された仏教の守護神で十二神将のうちの宮毘羅にあたります。室町時代以降は海上の安全を守る神・雨乞いの神とされ、航海に関わる人々だけでなく農業関係者にも信仰されました。7月上旬に夏祭り、11月上旬にも秋祭が行われます。 - 暁光山光勝寺(真宗本派本願寺末)
田住村扇ヶ鼻(現;佐用町宗之)の地にあった天台宗紫雲山福専寺という寺院をこの地に遷したものです。後に京都龍谷山本願寺の末寺として光勝寺と改めました。この寺の門は利神城にあったものと伝えられています。 - 旧田住邸
田住家は代々大庄屋役を務め、18世紀には旗本松平氏の代官として陣屋での政務を任されていました。そのため約1万5千点にも及ぶ膨大で貴重な史料が「田住家文書」として残されており、現在は県立博物館に寄託されています。もともと、この屋敷は田住氏のもとで年寄り、大年寄りとして重要な位置にあった、本陣神吉氏の別邸で、元禄期に作られたと思われる池泉鑑賞式庭園が今も残っています。また、田住政久の後妻よし子は宮本武蔵の義母にあたります。天正12(1584)年父無二歳が利神城主別所林治の娘よし子を後妻に迎え、武蔵はこの義母にそだてられましたが、7歳のとき父が死去し、義母は平福へ帰り田住政久の後妻になりました。義母を追って平福に来た武蔵は正蓮庵の道林坊のもとで武芸を学んだといわれています。 - 宝鏡山教岸寺(真宗大谷派)
寛文5(1665)年開創。現在の堂宇宇は正徳5(1715)年完成、阿弥陀堂形の様式美を保っています。堂内の「教岸寺」の寺号額は、享保2(1717)年、後西院天皇の皇女・宝鏡宮(本覚院宮)がお立ち寄りの際に揮毫されたもので、寺宝として大切にされています。明治6(1873)年、本堂が平福小学校として使われたのをきっかけに、この地の学校教育がスタートしました。(現在は統合して利神統合して利神小学校となっている。) - 鷲栖山霊山院正覚寺(浄土宗)
インドの帰化僧・法道仙人が庵村の山に鷲栖山と名付け住み、後に行基菩薩が巡行し庵を結びました。永禄10(1567)年、平福に遷し、寺号を正覚寺と改めました。それから、代々の領主の簿提寺となりました。また、江戸時代後期から地蔵菩薩を祀り、子授け・子育てのお寺として崇められています。 - 栄妙山了清寺(日蓮宗本圀寺末)
享保18(1733)年、福原城にあった了清寺を再興したものです。ご本尊の他に鬼子母尊神、北辰妙見大菩薩、清正公大尊儀をお祀りし、享保19(1734)年には宝鏡寺宮の祈願所になりました。 - 平福郷土館・牢屋敷跡
江戸時代の町屋の代表的な建築様式を再現した資料館です。大屋根の煙り出し、くぐり戸のついて吊り上げ戸、葬式の際の出棺にだけ使う出口などの特徴があり、館内には宿場をささえてきた商家の商い用具や民具類、利神城ゆかりの品などを展示しています。ここには、昔、牢屋敷があったと言われています。 - 井谷神社
すさのおのみことと倉稲魂神が合祀されています。すさのおのみことは天照大神の弟で、非常に勇猛な神で国土開発に大きな力を発揮しました。また、植林の道を拓いた神としても知られます。併せ祀られている倉稲魂神は五穀を司る神で、”稲がなる”が転じて稲荷神社と呼ばれると言われます。2月の初牛の日に初祭りが、7月中旬に夏祭りが、11月中旬に秋祭りがそれぞれ行われてます。 - 阿難堂
釈迦十大弟子の一人”阿難陀”が祀られています。堂内には十一面観世音菩薩、阿難田陀尊者、迦葉尊者を中心に、その両側にお大師様はじめ多くの仏像が祀られています。この場所は作州街道と因幡街道の分岐点にあたり、古くから札場として親しまれ、崇拝されてきました。祭りは毎年4月21日です。 - 十二世神社
「享保の飢饉」による村人たちの念願により、享保20(1735)年に創建。天神七代、地神五代の神々が祀られているところから、十二世神社と呼ばれています。毎年の例祭は、春祭が4月上旬、秋祭りが10月上旬です。 - 法師塚・しゃくなげの里
弘法大師の教えを世に広めようと、高野山の名憎・恵念法師が各地を巡航中、この地で病死されたのを村人たちが手厚く葬り、塚を建立してその徳を偲びました。今は立派なお堂がたてられ信仰の地になっています。4-5月にはこの山の斜面を利用した大規模なしゃくなげ園に150種1万本のしゃくなげが咲き誇ります。 - 義民・牛右衛門の碑
江戸中期、元文3(1738)年佐用郡は大凶作に見舞われ、翌年3月平福領の内に百姓一揆を起し「天狗状」なるものを、各村(19ヶ村)に回し教訴に及ばんと計画中、代官所役人がかぎつけ、首謀者として正吉村百姓牛右衛門(41才)は囚われの身となり、一揆は未発に終わった。牛右衛門は1年間入牢し断罪。翌年元文5(1740)年6月平福金倉橋袂で処刑された。大正2(1913)年5月碑が建立され、今も集落の守り神として崇められています。 - 神垣神社
創建された年代は負傷ですが、享保10(1725)年には天神七代と地神五代の十二世の神が祀られていた。弘化2(1845)年の天葺根命を祀った荒神社再建の際、二社を合祀したといわれています。毎年七月中ごろに夏祭り、10月中ごろに秋祭りが行われます。また、約300株のあじさいが植えられており、毎年花を咲かせています。 - 十輪山光明寺(真言宗)
養老3(719)年行基菩薩が開創された播磨六地蔵の一つです。古くから安産守護の子庵大師の腹帯授与のご信仰をいただいています。また、不老長寿の寿老尊もお祀りしており、西日本播磨美作七福神の霊場の一つとしても親しまれています。境内から町並みが一望できます。 - すさのお神社
本社にすさのお尊・大國主神・大山袛神、境内の五社に稲倉魂神・稲背脛神・猿田彦神・大山昨神・大宮之売神・拝殿髄神に豊家窓神・櫛岩窓神がそれぞれ祀られています。創立年月は不詳ですが、寛永17(1640)年、村内の宮谷荒神・西大明荒神・西山荒神社を合わせて1社にし、現在地に社殿が創建されました。大正4(1915)年11月20日に神鐉幣帛料供進指定神社となりました。7月中ごろに夏祭りが、10月中ごろに秋祭りが行われます。特に、秋祭りは盛大で神輿を先頭にした行列が続いて浦安の舞や獅子舞が奉納さえています。 - 正蓮庵
浄土宗正覚寺の奥の院ともいえる、阿弥陀如来を本尊として由緒ある庵です。文禄慶長年代に道林坊の憎名をもつ人物がいました。幼くして父母と死別した宮本武蔵が、この道林坊のもとで起居し、正蓮庵にぬかずいて経を読み、書を習い、近くの行者山に登って修練したといわれています。ここでの少年時代の経験が、武蔵の人生に大きな影響を与えたのでしょう。 - 吾勝速日神社
吾勝速日命が祭られています。大正12(1923)年4月にすさのお神社から分離創立されました。毎年夏まつりが7月中ごろに、秋祭りが10月中ごろに行われています。 - 行者山
標高460m。道は険しく荘厳な風景は、おのずと信仰の念を起こさせます。頂上の近くには洞窟があって、役の小角(役行者)の石像がお祀りしてあります。毎年5月5日には行者講があり、地元の信者などで法要が営まれています。 - 三本松公園
三本松という地名は、利神山南端の岩場の先端に慶長時代(1600年頃)からあった3本の松の大木に由来します。昭和18(1943)年、秋の台風に倒れ、伐採されました。岩場から東に少し歩くと、利神城に通じていたといわれる洞窟があり、天王神社が祀られ毎年4月3日にお祭りが行われています。岩場から平福全景が見渡せます。 - 利神城跡
利神城は貞和5(1349)年、赤松一族の別所敦範が利神山山頂に城を築いたことに始まります。慶長5(1600)年、関ケ原の戦いのあと、池田輝政の甥・池田出羽守由之が2万2千石で領主となりました。由之は5年の歳月をかけて広壮な城郭を造営し、山麓には城主屋敷、武家屋敷を配しました。さらに、街道沿いに町人地(現;平福宿場町)を設けるなど、城下町の建設にも尽力しました。3層の天守は、あたかも雲を衝くが如き威容から「雲突城」と呼ばれましたが一国一城令により廃城となりました。
利神城・・・慶長五年(1600 年)
関ケ原の戦いの跡、播磨五十二万石の領主池田輝政の甥・池田出羽守由之が平福二万二千石の領主となり五年の歳月をかけ利神山上に三層の楼閣を備えた広壮な城郭を築いた。雲を突くが如きその威容から「雲突城」とよばれたそうです。
まとめ
自分にあった兵庫県佐用町のお出かけプランを見つけて素敵な休日をおすごしくださいませ。
佐用町HP http://www.town.sayo.lg.jp/cms-sypher/www/tour/index.jsp